伝統と個人の才能

 twitterからはみ出してラウデフVSジブラの一件の続きをこっちに。

 ラウデフがアルバムリリースの前に突然発表した先行世代を挑発するDISソング「KILLIN EM」に対して、ジブラのアンサー曲が出ても何かタイムライン上に流れてきた年長世代の皆さんの感想の方に妙にしっくりくるというのが、この「いきがった若手を嗜める大人達の図」で収まってしまうと面白くないなーと思ったらそういう空気を読み取った上で見事にまたボードゲームを引っ繰り返してくれた。

RAU DEF-Trap Or Die


 最初の曲より倍以上あるボリュームからしても、実力を抑えた引っ掛けるための罠だった、ように見せかける「口悪いからこのjob選ぶ!」なMCマジック。というか何でジブラに仕掛けないといけなかったかは、こういう過去のインタビューで既に予告されていたようなもので、

http://ototoy.jp/feature/index.php/20100910/1?pre_check

『例えばディスられるJay-Zだって、ひとつのプロップス(尊敬、認識)になるわけですよ。なのに、日本でやると「てめぇ、なんなんだよ」っていう気まずい空気になるじゃないですか。「お前のプロップスにもなってんだから、ガッツリ返せよ! 」って言いたい。』
『そこをうまくやれば活性化すればできますよね。リスナーも巻き込んで、ビーフを計画的にやれば、アーティストもプロップスを得て一石二鳥だとおもうんですけどね。』

Zeebra / Die By The Beef http://www.youtube.com/watch?v=ralR0xBLbqc

 つまり双方織り込み済みの伝統芸だった、ここまでは。しかし、↑この吸血鬼のイメージに扮して『真夜中三時 丑三つ時』『ジキルとハイド スキルとプライド が引きずり出す俺のイーヴィルなサイド』『子供相手にBiggie & 2 Pac』、という風に自己演出する、芝居がかったヒップホップ史の物語(beefに生きる者はbeefに死す)に回収しようとするジブさんのアンサー動画をラウはあっさり拒否してさらに「深読みはいりません」「単純明快な殺し合いでいい」と「新しいルール」を設定し直そうとすることで、もしかしたらさっきのジブさんの返答までは両者に共有されていたのかもしれない予定調和も壊してきた、という、突然始まったバトルにしてはヒストリーが枝分かれするようなものになってきたのかな。

 とか言ってたら、さっき『@zeebrathedaddy この度は、ガキの遊びに付き合ってもらってありがとうごさいました!ならびに気にしてくれた皆様、これからも応援宜しくお願いします!』なるラウデフの宣言が出て『評論家気取りのネトヲタ』を振り回すのが目的だったかのごとくさらにもう一回ひっくり返って終わった。いくらごちゃごちゃ読み込もうとした所で本当に「瞬間的に今ゲームが楽しみたかっただけ」な伸び盛りの野生の反射神経に手玉に取られましたってことで、ちゃんちゃん。


 わたしはいちど言ったことを
繰り返しているときみは言う。もういちど言おう。
もういちど言おうか。そこに達するために、
きみのいるところに、きみのいぬところから達するために、
 きみは歓喜のない道を行かねばならぬ。
きみの知らぬものに到達するために
 きみは無知の道なる道を行かねばならぬ。
きみのもたぬものをもつために
 きみは無所有の道を行かねばならぬ。
きみでないものに達するために
 きみはきみの存在しない道を行かねばならぬ。
きみの知らぬものが、きみの知る唯一のもの。
きみのもつものが、きみのもたぬもの。
きみのいるところが、きみのいぬところ。
T・S・エリオット「四つの四重奏 イースト・コウカー」)


 詩集から広がって読んでみたエリオットの「文芸批評論」は、読者を言葉(=批評対象)に遭遇させる<出来事としての批評>を抉る含蓄の深すぎる実践的洞察が展開されている。

『規則を設けたり価値を決めたりする独断的批評家の仕事は完成していないものだ。そういう批評家の言葉は時間を節約するのだと言って正当な理由をもつことも時にあるだろう、だが本当に大事なことがらについては批評家があれこれ強制してはいけない、またよい悪いの判断を下してもいけない。批評家はただ対象を解明するだけでよい。正しい判断は読者が自分でするだろう。』(「完全な批評家」)

『事実に関する知識、言いかえれば、詩人の時代や詩人が生きた社会の状況やその時代に流行して詩人の作品に入っている思想やその時代にあった言語の状態などについての知識を持つことと、詩を理解することとを混同してはいけない。前に言ったように、こういう知識は詩を理解するに必要な用意であろう、その上、歴史としてそれだけの価値を持っているけれども、詩の鑑賞のためには入り口まで連れて行くだけで、そこからめいめいの入る道をみつけねばならない。この論文を通じてこれまでとってきた観点によると、そういう知識を得る本来の目的は、遠い過去へ自分を投入することができるとか、詩を読む時にその詩人と同じ時代の人が考えたり感じたりしたように――この経験もそれなりに価値はある――自分も考えたり感じたりできるとかのためではない。
 むしろ詩の直接経験、すなわち詩とじかに接触するためにわれわれ自身からこの時代の限界を取り去り、現在読んでいる詩人からその詩人の時代の限界を取り去るのが目的である。サッフォーの詩を読む場合にいちばん大事なことといえば、読者自身が二千五百年前のギリシャの島にいると想像することではない、大切なのはどの世紀どの国語に属していても詩を楽しむことのできるすべての人間にとって同様な経験、二千五百年をこえてひらめいてくるあの火花である。それだからいちばんありがた味を感じる批評家は、今までに見たことのない、もしくは偏見のため曇った目でしか見たことのなかったものを見させ、それと顔をつき合させ、その後はそれと自分とだけにしておいてくれるような批評家である。その後は自己の感受性と知識と、知恵をもとめる力にたよらねばならない。』(批評の限界、T・S・エリオット「文芸批評論」岩波文庫


 そして文学とは17〜18世紀までは「生活を飾る特殊な限られた装飾品」として「暇と教養とを十分持った人たちに上品な楽しみを与えること」=「言葉の読み書きの喜び」である芸術だったのに、例えばコールリッジのような詩人批評家の登場以降、文芸批評が哲学や心理学といった新しい学問分野と結び付いて「テキストを同時代の社会や現代人を写したものとして分析する」ようになったのはなぜか、も辿られている。そこで比較される同時代の文学者(通俗的教養主義ヒューマニスト)への手厳しく辛辣な評価の切れ味が鮮烈。

『たいていの批評家たちはまやかしの仕事、たとえばなれ合いになったり、もみ消したり、おだてたり、せきたてたり、ごまかしたり、気持ちのよい鎮静剤をつくったり、自分たちが他の連中とちがうただ一つのことは自分たちが育ちのよい人間で他の者の評判はあやしげだという顔をしたりすることにもっぱら心を使っている。』(批評の機能)


 その中で、「伝統」主義者のはずのT・S・エリオットの言っていることが現役のヒップホップシーンにも応用可能なのではないかと思えるほどにすごく啓発的かつアクチュアルでびっくり。過去のアーカイブを前提として厳格にリスペクトとプロップスの再配分が決められる秩序、というか。
 何も無い空白地帯にうち捨てられたガラクタを寄せ集めて、そこに集った仲間と楽しむために人種や言語や文化がミックスされる新たな共有地(リズムやライム)を作り出す、というのがヒップホップの精神だとして、そこで路上で叩き上げられたインディペンデントな教養体系や価値基準は個性を越えた『共通の遺産』として確実に機能している。さらに蓄積が短い日本語ラップにおいても、たとえ一人一人の発する言葉が数年とか下手したら一晩とかしか表向きの歴史や記憶に残らないものだとしても、『先入見をもたないで詩人に近づくと、その作品のいちばんすぐれた部分ばかりでなくいちばん個性的な部分でさえも、死んだ詩人たちつまりその祖先たちがそれぞれ不朽の名声を力強く発揮している部分なのだとわかることがある。』というようにスタイルが前進していくのだと思う。

『批評の機能も本質からいえば、これまた秩序の問題だと思う。現在もそうであるが、その時私は文学つまり世界の文学とかヨーロッパの文学とかを一人一人が書いた作品の集まりと考えず、「有機的な全体」つまり一つ一つの文学作品や一人一人の芸術家の作品がそれと関連し、それと関連してはじめて意義を持つ体系だと考えていた。だから芸術家の外側には芸術家が忠実に従わなければならないものがある。別の言葉でいえば芸術家が独特の地位を得てそれを持ちつづけようとするならばどうしても自分の身をまかせて犠牲にしなければならない宗教的な義務がある。共通の遺産や共通の根拠があると、芸術家は意識するにしろ意識しないにしろ、たがいに結びつくものだが、ほんとうのところこの結合はたいてい無意識なのである。どの時代でも真実の芸術家のあいだには、無意識のうちに相通じたものがあると私は信じている。(……)もちろん二流の芸術家には共通の活動に身を捧げるようなことはできない。なぜならそういう芸術家の主な仕事は、いささかでも自分の特色となるものがあれば、それをことごとく主張することにあるからだ。他人に与えるものを豊富に持って自分の制作に没頭できるような人だけが他人に協力したり交換し合ったり貢献したりすることができるのだ。』(「批評の機能」)

『新しい芸術作品がつくり出されるとき起こることは、その前に出たあらゆる芸術作品にも同時に起こることである。』(伝統と個人の才能)

『当然のことだが、個性と情緒をもっている人たちだけが個性と情緒からのがれたいとはどういう意味かわかるのだ。』(伝統と個人の才能)

 これは「日本の家郷」のような本に一番わかりやすく主張が表れている、一つのネーションに不変に持続・生成する流れとして文芸を称揚する初期の福田和也に近いのだろうか。

 ついでに、批評というのは歴史感覚と同時に「事実の感覚」が要求されるというのは蒙が啓いた。ジャンルに対する専門的権威として現場主義的に状況論(誰もが潜在的に思っているがまだ言葉にはなっていない当たり前のこと)を解説してそれだけでやっていける書き手も一定数需要があるよね、ということだろう。

『こうしてみつけたうちでもっとも大切な条件――これで創作家の行う批評が特に大事なことを説明できるのだが、その条件は、批評家は事実に対して非常によく発達した感覚力を持っていなければならないということである。こういう才能はとるに足りないともいえないし、ありふれたものでもない。また皆からたやすくほめられるようなものでもない。事実を感覚する力は発達することがたいへんおそくて、これが申し分なく発達することはまさに文明の頂点に達するということになるだろう。』(批評の機能)

文芸批評論 (岩波文庫)

文芸批評論 (岩波文庫)

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