原將人

今「新潮」に載っている佐々木さんの多次元批評連載「批評時空間 風景について」で中平卓馬と絡めて全3回に渡って論じられているので知ったのだが、映画作家・原將人が20代前半にしてカメラを抱えて「日本国の起源」と「映画の起源」に丸ごと遡ろうとしたという幻の大河自主ロードムービー「初国知所之天皇」(7時間以上ある8ミリ版が完成したのは1973年)が、34年の時を経てオリジナル全長版で再上映されるというのを記念して数年前に「20世紀ノスタルジア」を観た時のブログを読み返したり改まって過去と向き合ったりするほど距離感が開けた気がしないのでノーカットで発掘してみた。


原將人が脚本に携わった大島渚監督「東京戦争戦後秘話」(1970年)にはゴダール「中国女」と同じくらい青春映画(とはつまり、青春という祭り=運動の痛切な破綻を描いた映画ということだ)として影響を受けた。というかそれらに思いっきり感化・触発されて、これを書いている者が今よりもっと致命的に右も左もわかってないデジカメを持った若者だった時に登場人物がカメラを破壊したりする、学生まっただ中が終わってみれば安易な自己言及性がひたすら恥ずかしいセカイ系の赤面どころか激痛自主映画を撮らせてしまったというそういういわくつきの存在(自分にとって)です。

東京近辺で見れるのは7月3日(日)キッドアイラックホールで15時から。…で今から行ってくるんだけど、今知ったよ数時間後じゃん!何でもっと早く言わなかったんだこの野郎ふざけんな!と思った人は7時間以上ある作品なので途中からでも間に合う…かどうかは個人の審美的倫理的判断に任せますが最後の1時間と上映後のトークが700円で観られるというコースもあるそうです。

http://hatsukuni.hibarimusic.com/
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/hara-mov/

2007年8月1日の日記

 金がなくて本が買えないのが悲しいのでついに書店員になってしまった。これで無事卒業製作が…。
 最近一番スリリングで感動した映画について書かれた文章は、ゴダールスピルバーグを衝突させた藤井仁子の『太陽の帝国』、あるいは<孤児>への変貌――スピルバーグの決別だ。
『しかし、ここで原爆の白い光を見たのが<孤児>だけに厳しく限定されていることからもわかるように、「90年代スピルバーグ」においてなにかを見てしまうということは――リーアム・ニーソンシンドラーが丘の上から見る赤い服の少女でも、『マイノリティ・リポート』の予知映像でもいいのですが――、たまたま傍で見てしまったなどということでは到底済まされない、非常に切迫した意義を有しているとしか考えられないところがあります。そこには、ある映像が――見る者の都合のいいようにはまったくできていない、他者(として)の映像です――それを見てしまった者に災厄と救済を同時にもたらすという、ある種のカトリシズムのようなものすら感じられます。このことが、スピルバーグ自身がユダヤ人であることと関係があるのかどうか、私にはよくわかりませんが、それよりもはるかに興味ぶかいのは、「イマージュは復活のときに到来するだろう」という聖パウロの言葉――嘘に決まっています――を何度も引用している『映画史』のゴダールとの関係です。「映画はオルフェウスにエウリディーケを死なせることなく振り向くことを許す」(堀潤之・橋本一径訳)――『映画史』に出てくる印象ぶかいフレーズですけれども、そのゴダールと同様に、スピルバーグにも、大量殺戮こそが「歴史の敗者」を救済する好機にもなるという真に20世紀的な逆説を真摯に受けとめながら、贖罪の最後の希望を映像に託そうとする傾向が否定しがたく認められるのです。おびただしい人間の生命を一瞬にして奪った原子爆弾の白い光が、同時に荒野の只中に見棄てられた女の昇天する魂でもあり、しかもその光景が<孤児>によってしかと見届けられる――なんだか話がだんだん神憑ってきてしまうのですが、そのようなゴダールと「90年代スピルバーグ」との神学的ともいうべき共通点を、しかし無根拠な信仰だとして笑いとばす気になれないのは、彼らのその「信仰」を支えているものが、たとえ大量殺戮の地獄を経験しても、世界はなお見られるに値するし、そうである以上、映画はなお撮られるに値するはずだという、現代に生きる作家としての反アドルノ的な倫理であるからです。』

 ぷりぷりが夏期スクーリングでムサビにずっといるので家に居候に来たのだが、おそらく自主映画というものに手を出してしまった者なら誰でも持っている痛いところを直撃するであろうし、何か恐ろしいものが写っているに違いないので、リサイクル・ショップでVHSを捕獲したものの今まで見る勇気がなくて放っておいた「20世紀ノスタルジア」のロケ地がぷりぷりの地元だということが発覚したので、ついに「見てしまう」ことにした。でも私は「やってしまった者」として「自主映画」を深く愛しているのだ。いつからか、いつか「日本自主映画史」を追跡してみたいという欲望を持っている。イメージ・フォーラムから「日本実験映像史」という本が出ていて河出書房から「アンダーグラウンド・フィルム・アーカイブス」が出ているが全然物足りない。私は「実験」でも「アンダーグラウンド」でもない普通の人が日々の俳句のようにそれぞれの思いをこめて頑張ったぴあフィルムフェスティバルにも入選しないような「ただの自主映画史」が見たいのだ。そのような意味でぴあフィルムフェスティバルの歴代の入選作(http://www.pia.co.jp/pff/award/1977.html)は興味深い。当時の映像表現の想像力の限界が露呈している、ともいえるこれらの忘れられた映画たちは、自主映画の伝統ともいえる観念的・アヴァンギャルド的なものや、あるいはSF、ホラー等の商業映画ジャンルのパロディ的なもの、近年急増するプライベートなドキュメンタリーなど、形態は多岐に渡るが、そこに埋もれて捨てさられた自主映画たちのエッセンスを発掘し、再び光を当てることは無意味な作業ではないと思う。「今や商業映画の外にしか可能性はない」と扇動した松本俊夫から大林宣彦から森田芳光から手塚眞から黒沢清から最近の山下敦弘とかに至る壮大な流れがあるはずだ。「追悼のざわめき」も観に行かなければならない。
 60年代の伝説の自主映画「おかしさで彩られた悲しみのバラード」で知られる原将人・監督の「20世紀ノスタルジア」は、広末涼子(は個人的にはこの頃より大人になってからの最近の方が好きなのだが)の初主演作で「20世紀に、ありがとう」というすごいコピーが付いてるし漫画家の西島大介が日記で岡崎京子の「うたかたの日々」みたいに漫画化したいと言っていたので気にはなっていたのだ。しかも1カット目からぷりぷりが住んでいる実家のマンションが写っていてその隣の清洲橋が主な舞台だったので大騒ぎだ。そういえば小学生の時に近所で広末が出てる映画の撮影を見に行ったのを思い出したそうで、ぷりぷりが写っていればよかったのに。
 高校生の少年少女が手持ちビデオカメラで地球の滅亡についての映画を作る話のファンタジー(?)映画に興味のある人はどうぞ。それで男の方が高校を出たら慶応SFCとかに通ってヒップホップをやってそうな窪塚洋介みたいな爽やかな男なので憎たらしいのだが、自分は宇宙人だと言い張る。途中からミュージカルになるので楽しいよ。しかもトラックが宇宙らしいエレクトロだよ。くそー。家で「勝手にしやがれ」を見るのか。宇宙人は音と光を食べるのか。夜の街をさまようのか。個人的にはラストシーンが海なのが信じられない。最後に海に行く自主映画だけは作らないぞ、と思って海から始まる映画を作ったことがあるからだ。でも貶しているわけでもネタにしているわけでもなくて、日本版・ヌーベルバーグの最後の輝きのようなものが確認できた。ぷりぷりも「こういうシチュエーション、いいよねー」と喜んでいたし。47歳でこれを撮ってしまう原将人はすごい。さすが十代で大島渚と映画を撮っていただけのことはある。たぶんフィリップ・ガレルの映画も日本人の若いタレントが演じればこんな感じだ。というのは言い過ぎか。

男「ビデオ見たよ。素敵な映画にしてくれてありがとう」
女「まだ終わってないよ。ラストシーン撮らなきゃ」
男「じゃあ、一緒に考えよっか」!!!

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