\何もできてません/


 それにしても自分でもびっくりするほどの驚くべき何もできあがってなさだわ……2011年3月28日現在。(※あくまでもこの時点での話です。念のため)

 いよいよオウムの次は原子力か……っていう感じになってきた。福島の事故から芋づる式に表に出てきた既に担当者が2人も自殺していて、しかも震災以前から二進も三進もいかなくなっている福井県の「もんじゅ」の現状が怖すぎる。カルト組織を肥え太らせないと「平和」を維持できない社会だったのが大きな災害が起きる度に露出される、ということだと思う。
 大正の関東大震災も平成の阪神大震災も復興による共同体のリセット状態が過ぎた後からテロルや暴力が噴出した。2度あることは3度ない、と杞憂で済むようにしなければなりません、って先週のタマフル佐々木中さんが出て言ってたけど、人が死に始めてから気付くのでは遅いんだけどこれは手遅れとか言ってたら「ナウシカ」の世界がやってくるので今からでもいつでも冷静かつ慎重に対処しないとまずい、と今の今まで誰も考えなかったのが不条理すぎるのだが、震災のドサクサに紛れたらさらに悪化する一方なのは確実だろうしこれといって直接やることもないんだけど意識に留めておこうと思う。まともに報道されてないうえにさっきホームページも消えてたし。去年の事故以降更新を停止しているけど数日後には復活してた。最新の状況はtwitterもんじゅ君アカウント(非公式)http://twitter.com/#!/monjukunが詳しい。福島原発と並行して2011年5月24日からまた作業が始まるみたいなのだが、どうなることやらですね。
 「高速増殖炉は資源不足を解決する夢のクリーンエネルギー」という響きに例えば(佐々木中ナチスやオウムを分析するのにラカンから抽出した)国家や共同体の全滅に向かう「死の享楽」のような不吉な何かが潜んでいる、かもしれないのを何兆円とかの規模で国家予算が動く事業なのになぜ誰も指摘しないでここまで来てしまったのだろうか。そういや「もんじゅ」という名前も仏教からきてる。しかも新エネルギー事業という建て前だから下手すると新興宗教より動いている資金のケタが違うのがなあ……。

「戦後40年間実装してみた結果としては、実態が隠蔽される不透明な原発利権は第二のオウムです。原子力が絶対安全だとかいうのはオカルトです。」という今や誰の目にも覆い隠せなくなった命題を関係者全員の枕元に座って洗脳が解けるまで唱えていくべきなのか。ま、やっていることからして先祖代々の霊にも放射能汚染で苦しみながら死んでいった家畜や鳥や魚やその他すべての生きもの達の尊い霊にも日本全国で怒りに震える生霊にも夜な夜な苛まれているのは間違いないけど。

「今さらやめられない」問題の呪縛と、原子力が「鉄腕アトム」の時代には夢の技術だったけどとっくに非効率的な冷戦時代の遺物になっているのもわかりやすい↓

http://www.miyadai.com/index.php?itemid=942

 90年代に社会学者の大澤真幸氏がオウム真理教についていくつかの本(『戦後の思想空間』とか『虚構の時代の果て』とか)で分析していたのですが、この世のすべては物質的に無意味で死ぬ時はみんな死ぬ、という仏教のある部分を新興宗教に取り入れると、自分が死ぬ時は皆で一緒に死ぬ、と変換されて無差別テロ組織に変貌するんだそうです。ちなみにこれは(法華経信者が多かった)戦時中のファシズムの特攻隊でもそうだったみたいです。もんじゅの中の人がもしそこまで行ってたら、と想像するとこれほど恐ろしいことはないですよね。とはいえ原子力産業は別に悪の独裁者に乗っ取られて支配されているわけはなく、それぞれの生活がある地元の住民やその管理に携わる職員の人々も含めて不安な状況に置かれているだろうしその現場を実際に見聞きしたわけでもない想像力を欠いた粗雑な断罪は駄弁に留めておいた方がいい。

 うはは〜放射能〜が〜降って〜来るう〜〜とか脳内の無意識の声をわざわざ口に出しても一利なしだし仕方が無いので、「何はともあれ、わたしたちの畑を耕さねばなりません」(18世紀のマグニチュード9を越えたリスボン大震災後に書かれたヴォルテールカンディード」の一節)と黙々と目の前の課題を片付けるために過ごしていたらなんかこの緊急時に何を無益な、みたいに押し寄せてくる不可解な重圧に負けないために、とりあえずフェルナンド・ペソアの詩を二つ選曲します。


わたしは何ひとつしたことがない そうなのだ
これからもしないだろう だが 何もしないこと
それこそわたしの学んだこと
すべてをする 何もしない それは同じこと
わたしとは なれなかったものの亡霊にすぎない

ひとは見捨てられて生きている
真理も 懐疑も 導師もない
人生はよい 酒はさらによい
愛はよい 眠ることはさらによい
フェルナンド・ペソア『(わたしは何ひとつ……)』


ああ何という悦び
義務を果たさないことは
読むべき本があり
何もしないことは
読書はめんどうだ
学問など無
太陽は輝きつづける
文学などなくとも
河は善くも悪くも流れる
原本など存在しない
風はといえば
ごく自然に朝から吹き
ゆったりとし 急ぐこともない……

本など インクのついた紙にすぎない
学問など 不確実なもの
無と皆無のあいだを確実にしようとする

濃い霧のなかで セバスチャン王を
待つほうがどれほどよいか
王が来ようが来まいが
 
詩 善行 舞踏 どれも偉大なものだ……
しかし 世界にはもっとよいものがある
子ども 草花 音楽 月光 太陽 ときに
成長の代わりに 乾燥をもたらすのは残念だけれど

ああ しかし さらによいものがある
それはイエス・キリスト
経済のことなど 何も知らなかったし
本棚をもっていなかったことは確実だ……
フェルナンド・ペソア『自由』