『わたしのすがた』と『寝ても覚めても』

 これはたぶん夏だったけど数カ月後の年末に不動産がテーマと聞いて観に行ったフェスティバルトーキョー2010に出品された、飴屋法水演出の体験型作品『わたしのすがた』が、西巣鴨の実在する物件を利用した、観客はおそらく虚構だけど物語ではない断片的に散りばめられたテキストを頼りに、Jホラーの世界観にも通じる日本人の無意識に作用するような「過去にここで生活していた」死者たちの遺した痕跡を辿っていく、というものだったのだが(写真を撮ったらダメだったのならばすぐ消します)、土や風雨や虫に侵食されてあちらこちらに穴が空いているどこを切り取っても静粛なムードが崩れない空間・舞台設計が隙なく作り込まれていて、得もいわれぬ気配が朧げに巣鴨の下町の一角に広がっていた。観客には最初その死者、老人たちのエピソードが虚構であることは知らされないのだが、最後に出てくるメッセージによってそれはわたし=作者=飴屋法水とはまったく無関係の虚構であることが明かされる(かつて飴屋さんが「バ  ング  ント」展で試みたことの深化としてブラックホールのような「不在」が完成される?) 、という趣向について思う所があって書きたかったことがあったんだけどここでは諦める。あ、でも擬似臨死体験と接した究極の「不在」をこの世で目に見える形で上演するためには実在する身体の痕跡を酷使するしかない、ということなのか。今書いてて初めて気づいた。それでここに並べてみると、上がノンフィクションで下が人工の虚構だというのが区別できないかも、映像というのはドキュメンタリーとフィクションが地続きだ、という定式がどことなく微妙にわかる、今閃いたんだけど。












 同じ頃たまたま観れたマームとジプシーの演劇『ハロースクール・バイバイ』にしても、小説でもマンガでも演劇でも、記憶の細部を外在的・可塑的な、機械的に操作可能なもの(ある物質的な媒体に痕跡=イメージとして記録されたもの)として分解・再構築して「反復する物語」の中で並べ替えることで、逆説的な非人間的センチメンタリズムをもたらす、みたいな作品をここ数年見かける。

寝ても覚めても

寝ても覚めても


『もうこの世にはカメラを持ち歩いている人しかいなくなったんじゃないかと思った。』(柴崎友香寝ても覚めても」221p)

 あるイメージに触れることで人の情動が変化してしまうのはなぜか、について映像ではないジャンルで「写真論」として思考する、ということでは、かつて一度も撮影されたことのない映像について物語が進む小説、柴崎友香の『寝ても覚めても』もそうだ。
 22才の主人公・朝子が一目惚れした、何を考えているかよくわからないと言われても仕方がない本能的な行動で一箇所に留まれないけどとにかく人を魅きつける男「麦」と、その後に出会った朝子には「麦と同じ顔」に見える年下の男「亮平」のあいだでそのイメージは生まれる。小説では「恋愛の監視カメラ」と化した朝子の見た目によって、夢のような曖昧な記憶も含めて、東京から大阪までロケーションも移動しつつ総計10年間にのぼる、周りの街の風景や季節の変化ごとに移ろっていくその3人の関係性の経緯が、変わりやすい空模様を定点観測したスナップショットが淡々と蓄積されていくように写し取られ、綴られる。そこには白昼夢かホームビデオで偶然撮れてしまったギャグ映像の投稿VTRに出てくるような、周りの人々のありそうでない奇妙なディティールも映り込む。

『亮平の顔を見た。見慣れた顔。慣れる、ということが、重要だった気がする。』(214p)

『最近、誰を見ても誰かに似ている気がする』(205p)

『まったく同じ格好の双子が、声を合わせて叫んだ。声も、同じだった。右下から、解説役の荒俣宏が、砂色のサファリな格好で登場した。そして、言った。
「ところできみたち、二人なの、一人なの、どっち?」
わたしは驚愕した。このように重要な問いをテレビで投げかけるなんて。やはり荒俣宏は恐ろしい人だ。テレビからこのような言葉が、全国のお茶の間に響き渡ろうとは。』(187p)

 おそらくこの作品は、ある一つの理想の恋人のイメージを「見慣れる」までの時間を内在的に観測した、脳内の出来事を断片的に記録した小説、というか、頭の中のイメージに「好きでもないのに」振り回されてしまう恋愛現象においては、写真で見比べたら全然違う二つの顔が当人にとって一つになってまた二つに戻る(=見慣れてしまうことで感情がほどける)までのこういう過程が現実に起こり得る、という生物学的(?)物理的(?)真理を描いている。写真論的な視覚の記述を導入することで、人間がその中で生きている<風景>のサラウンドに広がる、いわゆる「恋する私の自我=主観」を中心にした恋愛ドラマが語りきれない何かを掬い取っている恐ろしい小説なのだろう。

 以上のこういったことをより突き詰めるためには、アラザル3号に載っている坂根タイガースの坂根さんの柴崎友香論「現代小説解読講義:柴崎友香『その街の今は』」が、写真に撮られたある限定された風景に心を動かされるとしたら、柴崎作品にも登場する、その主体でも客体でもない場(あいだ)の持つ「あはれ」とは何なのか?ということをベルクの「風土学序説」やプラトンの概念「コーラ(場)」等を援用して読んでいる力作評論ですごい参考になるのでチェックした方がいいですよ。というか思いっきり参考にしました。

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ヒャッキンディガ

『青春を嫌う人間は、別に俺だけじゃないよ。その時その時で“現在の青春”が嫌いな人は一杯いるけどサ(“今の若い者ンは”って言う人のことね)、それとは別よ、勿論。
だって“青春”には嫌われる理由ってあるんだもん。自分の深みにはまった人間は、それ故に他人を拒絶する―拒絶することによって、自分のはまった深みを直視しない(繰り返しになっちゃったな)。だから、理屈を盾にしてエゴイズムを通す、って。日本の論理が根本的に閉鎖的なのはそれでしょ。理論闘争をやってる人間の便利さは、理論闘争をやってる間は、その理論がいずれは適応される筈の現実を見なくていいってことだもんね。「論争よ起これ!」なんていう声もあるけど、私はそんなもんない方がいいと思うね。日本の論争は、必ず頭の悪い人間が一方的に言いがかりをつけるという形でしか起こんないんだもん。無意味な論点が激しい論争をまき起こす、じゃ情けないじゃない。(橋本治「それぞれの青春―日本には一体いくつのセクト主義があるか?―」』

 100円で買った橋本治「ロバート本」河出文庫より。ガルシア=マルケス百年の孤独」の書評が入ってたので買った。突発的に「ワンコイン批評 ザ・ヒャッキンディガ」っていうフリーペーパー企画を思いついたので100円コーナーをディグ(様々な自分以外の尽力によって無事完成して配った後一般には公開してなかったことに気づいたので土下座したい)。

 蓮實重彦があんなもの19世紀のフローベールに比べたら大したことないって言ってたから南米文学は長らく読んでなかった。若気の至りであろう。

 ガルシア=マルケスの「戒厳令下チリ潜入記 ―ある映画監督の冒険―」が岩波新書から出てたのを中古で見つけた。200¥。小説もだけどとわけ新聞記者時代にマルケスが書いた本は「民衆の生活に関するどうでもいいミクロな記述」の宝庫だろう。


百年の孤独 (Obra de Garc´ia M´arquez)

百年の孤独 (Obra de Garc´ia M´arquez)

戒厳令下チリ潜入記―ある映画監督の冒険 (岩波新書 黄版 359)

戒厳令下チリ潜入記―ある映画監督の冒険 (岩波新書 黄版 359)

幸福な無名時代 (ちくま文庫)

幸福な無名時代 (ちくま文庫)

誘拐の知らせ (ちくま文庫)

誘拐の知らせ (ちくま文庫)

カンバセイション・ピース

カンバセイション・ピース

『「何をぼんやりしているの」。ウルスラはほっと溜め息をついた。「時間がどんどんたってしまうわ」
「そうだね」とうなづいて、アウレリャノは答えた。「でも、まだそれほどじゃないよ」』(ガルシア=マルケス百年の孤独」)

『そのときまで考えたこともなかったが、あるばか騒ぎの夜にアルバロから、文学は人をからかうために作られた最良のおもちゃである、と教えられたのだ。アウレリャノはしばらく時がたってから初めて、この独断的な意見はカタルニャ生まれの学者をまねたものであることに気づいた。この男に言わせると、知識というものは、エジプト豆の新しい調理法を思いつく役に立たなければ、一顧だに値しないのだった。』(百年の孤独

  「百年の孤独」と保坂和志の「カンバセイション・ピース」はある風景の中の人物や出来事の描写から何気なく世界とはこういうものなのだ、みたいな一行に凝縮された書き方に滑らかに移っていく(そして場面の流れを変えるその一行が長編小説の中で何箇所も響き合う)所がつながる部分がある。

『言葉が光でその光が闇を照らしたのではなくて、言葉が光になったから言葉の届かない場所が闇になってしまったということで、だから猫には闇は、闇でも無でもなくてどんどん入っていく。聴覚や嗅覚や触覚が発達しているからということではなくて、言葉と光が同じものではないからそこは闇ではない。』(保坂和志カンバセイション・ピース」)

『私たちは自然と戦うことで人間が人間として立ったような世界に生きていないのだから、かつての人間のように言葉に呪術的な力を持たせることはできない。必要なことは、言葉から、比喩的な意味や情緒的な響きなどの厚みを取り払って、事物があることをただ記述したり、起こったことをただ記述したりして、言葉を薄く薄く使っていくことなのではないか。含みの多い曖昧な表現や、べたべた感傷的な書き方には、間違っても将来がない。』(保坂和志「文学のプログラム」、「言葉の外へ」所収)

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サニーデイ・リアルエステイト

「晴れた日の不動産」っていう名前のオルタナバンドが昔いたんだよ!何が好きってこのジャケが好きだったよ!ボーカルの人が宗教に走ったとかグランジっぽいエピソードが不穏な耽美的メロディーに表れている。郊外の日常に狂気が忍びよるほど平和だった90年代にブラッドサースティ・ブッチャーズとかゴッドスピードユー!とかが好きな人が好きそうなバンドだった、今から振り返ると。

How It Feels to Be Something on

How It Feels to Be Something on



っていうどうでもいいことしか思い浮かばないくらいにこき使われている… 連休だってのに…

もうやだそれ以外が何にもできない… ので一個ずつ色々頑張るしかない…

SHINGO☆西成twitterがデジタルゲットーなノリの文体で面白いので模写してみる…

でも昼とかご飯に連れていかれるとなぜかおごってもらってるので何ともいえない部分もある… あっさり懐柔…




























近所の空き家にインスタレーションを発見した。グラビアアイドルでも置きたいものである。






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2011年

だんだん冗談抜きで外在的な環境が否応なしにヒップホップになっていっているんだけどどうしよう……。しょうもない事件に巻き込まれがちでも少なくとも最低限の客観性と自制心のある自分で良かった。どうするどうなる日本社会??デフォルトの無意識がふざけて緩い平和な自分に戻りたい。こんな日本国憲法を噛み締める日々はもう嫌だ(とか嘯いていたのは2010年のいつだったかは忘れた)。

〔奴隷的拘束及び苦役の禁止〕
第18条何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。
〔思想及び良心の自由〕
第19条思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。
〔生命及び自由の保障と科刑の制約〕
第31条何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。

あと「現実に屈している人々は、それほど多くの細部を必要としないのだ」というモーリス・ブランショによるカフカについての箴言が燻っているので大事にしまっておこう。

古本屋で買った「ミシェル・フーコー自伝」に女子学生らしい書き込みがあって萌える。同じ本屋で買った「監獄の誕生」にも同様の書き込みがあるんだけど元の持ち主は人文系の院生とかだったけど結婚でもしたのかなあ…などという邪推は明らかに男性優位社会のジェンダー的なバイアスが混じっているのでもし気分を害されたのであればその女性に謝罪する気はいつでも充分にあるので、安心してください(可愛い字を書く男性だった場合を全力の想像力で排除した完璧にキモい妄想)。

『思うのですが 人はもっと愚痴ったり妬んだりするのを前面に出していってもいいのではないでしょうか……
「グチを言う人は嫌われる」というような間違った認識のせいで 親しいものどうし話していても
愚痴等の話はするべきではない …といったムードがあります 
「愚痴の話などするべきではない」とするなら では 何の話をするのが正しいのでしょうか…
恋愛の話でしょうか… 観たテレビが面白かったという話でしょうか……
そんな話は 聞きたくない!
グチっぽい話題を聞くの 僕は好きです 例えば職場のグチなんか聞くと
「あーみんな大変なんだなー こいつも大変なんだし 僕もがんばろう…」…と
人も大変な目にあってるのを確認して… スカッとした気分になれるじゃないですか!!
それに そーいった 愚痴などの自分の弱さ的なものを見せない奴は 信用できないじゃないですか』(福満しげゆき「僕の妻ってどうでしょう?(1)」)


佐々木中『切りとれ、あの祈る手を』の世界史を激震させる読め!という狂気の命令とは、フーコーの最初の著作『狂気の歴史』と(「国」を創設した先王の「礼」を重んじる)萩生徂徠の古文辞学が似ているという丹生谷貴志の「死体は窓から投げ捨てよ」を思い出した。

『ともあれ、これを読みながら思い出していたのはミシェル・フーコーの「狂気の歴史」の末尾だった。すなわち……
「創作活動と狂気がともに生まれ完了する瞬間、それは、世界がこの創作活動によって設定された自分を、またこの創作活動の前面にあるものに責任を感じている自分を見出す、そうした時間の始まりである」。

 何ものもない場所に何かを設立すること、或いはそれが設立されることに何の根拠もない場所に何物かを設立すること、これはそれ自体無根拠な身振りであるだろう。そしておそらく、その無根拠な身振りを絶対的なるものとして断言しようとすることは狂気に他ならない。徂徠は無論先王=聖人=設立者を狂気などと言っていない。しかし先王たちが設定した「礼」が理論的な説明をまったく受け付けない物であることを繰り返す。言わば「礼」とは理不尽な断言であり、その理不尽さを問いにかけることを徂徠は禁ずるのである。或いは正確に言えば、理不尽を理によって語ることの無意味を繰り返すのである。聖人ならざるわれわれに出来ることはただそれを「聖なる」起源、礼―文―道として受け入れ呑み込むことだけである、と。
(……)聖人=先王=設立者とはおそらく「狂気」である。だからこそそこに断言された「礼」には内包的理などあり得ないし当然のことながら理論づけることなど不可能であり無意味である。後人たるわれわれとしてはただ、自らは狂気の中にありながら、その狂気の断言において自らを狂気の封印と化し、そのことにおいてわれわれを狂気から護ってくれる「先王」たち、そしてそれが設立した「礼」を「礼」として礼拝することだけが道であるだろう……徂徠における先王は私にはほとんどアントナン・アルトーヘリオガバルスを思い出させるのだが、ともあれ、少なくとも子安氏によって描かれた徂徠の中にはその王によって設立された「礼」の理不尽さをその理不尽さのままに引き受けねばならぬという激しい決意がある。』(丹生谷貴志「死体は窓から投げ捨てよ」)

去年あちこちで意味もなく発作的に電子書籍アレルギーを吹聴してみたけど、でも「失われた時を求めて」とか「ユリシーズ」とか「金枝篇」とか物理的に読み始めようという気が起こすことすらハードルが高い、手で持ち運べるインターフェイスとしてある閾値を越えて重厚長大な紙の本はどんどん電子書籍にするべきだという風にあっさり転向することにした。そして家のプリンタにスキャン機能が付いているのをあっけなく発見したので要らない本をpdfにする術を覚えた。300ページ以下なら一冊20分もかからない。デジタルデータばんざい!!それにしてもここまでブログのタンブラー化=誰でもできる単純機械作業化が激しい時は何かの疲弊による現実逃避的徴候なのは知られざるクダ巻き舌巻くデジタルネイティブの生態かもしれない。スラム街からネットワークに若者の鬱憤が接続された時代の日本語アンセムの一つがパジャマパーティーズの「degital native」だと思った。


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雑感

 あーもう「下書きを公開」のボタンを押せばいいだけのエントリーが30個以上あるんだけどこのまま放っといても埒が明かないのでこのこんがらがったのを巻き戻して片付けるために時系列を無視して出来た順にアップします。震災以後までたどり着くやら……

 しかもそれも「余り」だというのが恐ろしいのだが、手付かずの2010年分は一本の大河批評にまとめて仕立て直して次のアラザルに載せようかどうしようか、そもそも雑誌が出るのかどうかはインディペンデントなやる気と自覚と計画性しだいなのは即自分に返ってくる問いなんだけど、関係ないけど全部自分に返ってくるといえば、この前の日曜日の高円寺反原発デモの実況記録映像を少し観てみたら、政府と東電が無計画にしか見えないわ公式情報ははっきりしないわの状態で漏らされていく放射能に対して明確かつ正当な異議と不満と不安は吹きだまっているのでみんなでゾロゾロ集まったはいいものの遠慮がちにシュプレヒコールを叫ぼうか叫ばないか抗議の題目は何にしようかどうやって意思表示を誇示すればいいのかわからない初々しい行列が流れていってて、まさに海の向こうの外部の視線に対して主体性を問われている日本の人びとの姿そのものが表れていると思って深く感じいった(「デモ慣れ」している集団もいたけどそれは主催してる人達に近いような気が、1万人の中には主催者の思惑も知らずにとりあえず聞きつけて集まった人も多かったように思う)。行動を起こしたいけど具体的に有効には何をすればいいのか手探りだ、という姿は見る者をいたたまれなくさせるものだが、まだまだもんじゅの事故も手付かずだし震災復興も原発問題も始まったばかりで福島第一発電所の処理も10年以上かかるかも、あとまた爆発するかもだしマグニチュード7以上の揺れが止まらないかも、とかいきなりB級アクション映画もびっくりのシナリオのない世界に突入させられた状況で、あらゆるデマもシニシズムも専門的意見の錯綜も知識人のうろたえも飛び越えて行動や惨状が刻々と画像に記録される今この事態こそ映像の力が試されている時もないな、と思った。

「はじめての小説論」について


http://expoexpo.exblog.jp/13220830/
http://expoexpo.exblog.jp/13220836/

 かなり以前からアラザル佐々木敦インタビューとかでも連載が予告されていたけど、ずっとタイトルすら明らかにならなかった幻の文芸評論が先日唐突に公開された。この『はじめての小説論』第1回は、こんなことを言うのは何だけど、読んだタイミングもあるんだろうけど、ここ3年ぐらいの間で読んだ佐々木さんの文章で一番際立って感動してしまった。
 思い返せば、『テクノイズ・マテリアリズム』で難聴の作家ハンナ・メーカの本『失聴―豊かな世界の発見』に出てくる一節「わたしたちはみな、森で倒れる樹……。」をめぐって概念化される、「自意識を極限まで引いていったところで出現する、誰にとっても不断に起こり続けている聴覚的<世界>との出会い」とか、「ハーフ・ジャパニーズとはじまりの音楽」という文が収録されている『ex-music』とかが提示している、音楽の実験から取り出してきた思考にしても、佐々木さんが執筆以外にも今までやって来られたヘッズとかエクスポとかのジャンルの多様性を貫通する実践にしても、それらに込められている思想のエッセンスが凝縮されているのではないかとすら思った。

 例えば高橋源一郎がここ10年ぐらい色々な所で言い続けている「小説のはじまり」の主張と比べると、とにかくピュアなアウトサイダーを擁護して憧れておけばいい、みたいな逆に文学観を狭く特権化する視野狭窄に陥っている所があるんじゃないかと思われるのだが(それと裏表になっているだろう「文学さんにお伺いを立てて善しとされたものが文学だ」というような田中和生の発言も「絶対安全文芸時評」で疑念を呈していた)、そうではない、誰にとってもいつでも既にそこにあったはずの、「なにかのつづきであるようにして生まれる」「必然的で不可避な「世界」のはじまり」がシンプルにロジカルな方法として形式的な手続きで導出される、というのがブレイクスルーな解放感もあったのに、それだけにこの原稿が掲載されなかった無念さと論旨を曲げられなかった理由も伝わってきた。

 このような、批評家が語ろうとするものの固有性でも(「批評時空間」は時評的な紹介の要素が強い性質から、こちらに標準が寄っている気がする)、それを語ろうとする批評家の固有性でもないような、言葉が書かれて読まれる場所に潜在的に走っているプログラムがせり上がってくるようなテキストはなかなか世に実在していないうえに、かつあれだけ情報の知られざる価値を集めたり知識を整理したりするのが得意な書き手が、蓄積された知識や情報から一歩踏み込んで原理的で切実な問題に向かい合っている気迫が感じ取れるのも珍しい、ということで、またどこかで書き継がれるはずのつづきを待望したい。

 あとこれは完全に個人的な思い入れで話題をつなげてみるのだが、震災が起きてからそれ以前の意識に戻れなくなったので一から何を読もうかと手に取ったのがベンヤミンの「経験と貧困」という論文だった。第一次大戦の史上かつてない規模の非人間的な大量死の後に、『技術のこの途方もない発展とともに、あるまったく新しい貧困が人間に襲いかかってきた。』と、ヨーロッパの「精神の富の破壊」を観察するベンヤミンがその混乱した状況を「新たな未開の状態」と名づけて、

『というのも、経験に乏しいとき、未開人はどのような状態へと強いられるだろうか?そのようなとき、未開人はいちばん初めの段階から事を起こさねばならない。つまり、新たに始めること、わずかばかりのもので遣り繰りすること、そのわずかばかりのものから拵えあげること、そしてその際に、右や左をきょろきょろ見ないこと。偉大な創造者たちのなかには、何はともあれまず一切を清算してしまうところから始める非情派が、つねに存在した。すなわち、彼らは製図机を欲したのである。彼らは設計者だった。』

 と、文明や文化が一旦壊れてから大衆が手軽な救済を求めて氾濫する、占星術やヨガ、手相や交霊術やミッキー・マウスなどなどの「安ピカの紛い物」と一緒に、ガラス建築や幾何学的なキュビズムのような形で「いちばん初めの段階から新たに事を起こす」野蛮な設計者が現れるのを予言していたのがずっと引っかかっている(これについてはまた同じ話を繰り返すかもしれない)。
 ある日突然大量の犠牲者を弔うことになったというだけで、世界大戦という純然たる人災と地震津波の災害を歴史的なアナロジーにするのは、それぞれ別の背景として慎重にならなければならない。しかし、日に日に確認されていく死者の数は、誰の趣味嗜好や思想信条でも変えられない現実のものである。

 それで「複製技術時代のアウラの喪失」が解釈によって両義的であったように、ベンヤミンファシズムの影が忍び寄ってきてすらいる、まったく楽観はできない新たな未開状態に直面して、「新しい天使」を描いたクレーのような『時代についていかなるイリュージョンも持たず、にもかかわらず無条件に時代の側に立つ』、『伝統的な人間像、厳粛に儀式ばった、高貴な感じのする、過去の供物を総動員して飾りたてた、そんな人間像とは袂を分かち、新生児のようにこの時代の汚らしいおむつをして泣き叫んでいる裸の同時代人のほうにこそ、目を向ける』、そして「手にしているごくわずかのものでやり繰りしながら文化を超えて生きながらえていく用意をしなければならない」ことに鋭敏な芸術家に微かな希望を見い出しているのだと読めた。「はじめての小説論」の方は直接的には歴史的状況とは関わらずに原理に向かう試みだとしても、文中に「建築」が出てくると、悲惨に何かが崩壊しているイメージに曝されている日々なので、そういう意図は元々なかったかもしれないのだが、どうしてもその何度目かの新たな「はじまり」とも重ねたくなった。

今年の厄は今年のうちに

 びっくりするほど浅ましく私利私欲に突き動かされている人は、逆に単純すぎて憎めない人でもある、とあっさり大胆に周りに受け入れられてしまうのが罠なのだ。でもそこである程度の信用と利害をちゃんと責任を持って調整しておけばそんなにゴタゴタ困ったことにもならないからいいじゃんというこの世を舐めた態度のただでさえあんまり役に立ってない客観性を過信した視野狭窄にこれ以上足を掬われないようにしよう、明日から、来年から、いつか絶対救いようのある内に、と思った。そしてそういう困った人をなあなあで同レベルで許容しているとこっちまで影響されていないとは限らないのではないかというのがさらにクリティカルな点だ。ともあれ(どんなネガティブな事態を引き起こそうとも)真心って結局最終的にとても大事なんだねーということを学んだ一年だった。


『必要なのは、偶像の怠慢な永遠性のなかにあぐらをかいていることではない、変化し、消滅し、かくして普遍的な変形作用に力をあわせることだ。つまり、無名の存在として行動することであり、なすところなき、名前だけの存在とはならぬことだ。とすれば、創造者が抱く、死後の存続の夢想は、安っぽいばかりではなく、嘘っぱちなものと思われる。そして、世界のなかで、この世界のために、無名のままで果される真実の行為は、どれもこれも、死に対して、ひとつの勝利を、一層真実で確かな勝利、少くとも、もはや自分自身ではなくなったなどというみじめな悔恨をまぬかれた勝利を、断言しているように思われる。』(モーリス・ブランショ「文学空間」)


ミシェル・フーコーはとりわけ「批判機能」の衰微を不満に思う。たとえば「異なる思想のあいだの交流や討論、場合によっては相当激しい議論、これらはもはや表明の場をもたない。雑誌を考えてみたまえ。同人雑誌であるか、それとも退屈な折衷的傾向の媒体であるのかのどちらかだ。批判の仕事の機能そのものが忘れさられてしまっている。五〇年代には批判は一つの仕事だった。本を読むこと、本について語ることは、いわば自分自身のために、自分の利益のために、自己変革のために、人が夢中になって行った鍛錬だった。好きでない本について上手に語ること、あるいは、ひどく好きである本について十分な距離を置いて語ろうと試みること、この努力のおかげで、書かれたものから書かれるものへのあいだに、本から本へのあいだに、著作から著作へのあいだに、何かが通っていた。ブランショとバルトが五〇年代のフランス思想のなかに導入したものは多大であった。ところが批判はこの機能を忘れてしまい、政治的で法律的な機能で間に合わせたように思われる。つまり、政敵を告発し、裁き、有罪の判決をくだす。もしくは判断をくだして賛美する、のいずれかだ。これは最も貧弱で最もおもしろくない機能である。ぼくは誰ひとりとして責めてはいない。個々人の反応が制度のメカニズムと密接に混ざり合っていることを充分すぎるくらい知っているので、責任の所在はそこあると、あえて言いたいほどである。しかしながら今日では、真の批判機能を受け入れるべきいかなる型の出版物ももはや存在しないのは明白である。」』(D・エリボン「ミシェル・フーコー伝」)



『読書とは事実おそらくは隔離された空間での眼に見えぬ者をパートナーとするひとつの舞踏、「墓石」との楽しい、熱狂的な舞踏なのである。この軽快さにもっと重々しい心労の運動を望んではならない、なぜなら軽快さがわれわれに与えられるところには、荘重さもまた欠如してはいないのだから。』(モーリス・ブランショ「文学空間」)


  「アワーミュージック」が日本に上陸してから「ソシアリズム」までもう5年も経ったのか……。まだ映像を学んでいたその間に作った手書きアニメーション、「うめくゴダール頭」(2006年)を発掘してみる。