サイファーと「荒地」と「東京ブロンクス」

明日開催されるサイファーfor福島の全地球を人類詩人化計画で埋め尽くす勢いの多言語対応がすごい。エスペラント語まである……http://d.hatena.ne.jp/CAMPCYPHER/

@yasutakajugaku たかやすがくじゅ @yamemashitaaがリツイート
大友良英さんが福島でフェスをやると聞いた時、期待する一方で、震災前から文化なんてないしみったれた鬱な街なのに、地元の人達が付いてこれるであろうか、浮いたイベントになるのではないかと強い懸念があったのだが、

@yasutakajugaku たかやすがくじゅ @yamemashitaaがリツイート
昨日のサイファーでのトークで大友さんが「文化なんてなにもできない」「だらしなくやりたい」「福島が嫌いだった」とおっしゃていて合点がいった。地元の士気の不安はあるが、あくまでこれは大友さん個人のやり方なのだ。そこが信頼できた。共闘などはなく各々個人の闘いの時なのだ今は。

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福島のフェスにスタッフとして参加しようが色々考えたが昨日のトークを聞いてそれはやめにした。僕には僕なりのケリのつけ方があるはずだと思った。

@yasutakajugaku たかやすがくじゅ @yamemashitaaがリツイート
今後作られる福島に関するドキュメンタリー映画で3月11日から始まるものは眉に唾つけて見なきゃならない。嘘っぱちである可能性が高い。何か始まっていたのだとしたらそれは大分昔からだ。

そう、「共闘なんていうのは言葉が古い!どうせ文化は普段から役に立っていないんだから事を起こすんだったらいつも通りグダグダな感じで行きましょう」って言っていたのがよかった。

和合亮一氏は以前六本木詩人会で見たことあった筈なのに一層陽気でサービス精神旺盛な人だったので驚いた。街中の公園だったので、瓦礫の中を歩く情景とか余震でこの辺の犬が吠えるんだ!といった詩が周りで近所の子供が遊んでたり鳥の声とかと耳に混ざってきて何ともヒア&ゼアの多層的な朗読に聴けた

あと大友良英氏が普段詩を書いたこともなかったのに思わず最近詩的になってしまう、と正直に述べていて(ブログに書いてしまった、とはこれのことでしょうか?http://p.tl/eyNd)、

福島出身ではなくても「放射能が海に溶けている真っ最中」という圧倒的なイメージは詩人にとってどう扱うかがハードルが上がっている気がするのだが、橘上を筆頭に普段通りの芸風の人もいれば歴史的な引用にまで広げたりとかそれぞれ立ち向かっていたように思う、というだらだらサイファーを見た印象。

それについてはやっぱり現代詩手帖東日本大震災特集にも載っている和合さんの「詩の礫」が、全身でそれに衝突して行って、疲弊と一緒に忍びよる甘美な感傷的な気分を振り払うように、「現場」をグルグル彷徨しているドキュメンタリー的な即物感すらあって迫力がある。

(以上4月30日の@yamemashitaaのtwitterより抜粋)


さあ、全然まとまらなかったのでしばらく寝かせておいた結果今なおまったくまとまってないブログが始まるよ。



しがみついているこの根はなにか。この石のがらくたから、いったい
どんな根がのびるのか。人間の子よ、
君には云うことも、推測することもできないのだ。君はただ
くだけた影像のひとやましか知らないからだ、そこに、太陽ははげしく照り、
枯木はかげを落さず、コウロギはなぐさめを与えない。
そして、乾いた石は水のひびきをたてず、ただ赤い岩のしたに蔭があるばかり。
(この赤い岩のかげに来たまえ、)
そしたら、君のうしろで大股にあるく朝の君の影とも、
君をむかえて立ちあがる夕方の君の影とも、
そのどちらとも違ったあるものを、君にしめそう。
ひとにぎりの灰のもつ恐怖を君にしめそう。
   さわやかに風はふく
   ふるさとの方へ
   わがアイルランドのおとめよ
   いまいずこにありや。
「一年まえ、あなたは初めてわたしにヒヤシンスを下さいました。
それで、わたしはヒヤシンス娘とうわさされました。」
だが、わたしたちがヒヤシンス畑から、おそく帰ってきたとき、
あなたの腕はいっぱいで、髪はぬれ、わたしは口もきけず、
眼はくらみ、生死もわかたず、
光の中心、静寂をみつめて、
何もわからなかった。
海はあれ、物かげもなし。
T・S・エリオット「荒地」Ⅰ.死者をほうむる)

僕は岸に腰をおろし
釣りをしていた、あの乾いた平野に背中をむけて
せめて自分の国土だけでも秩序を整えてみようか。
ロンドン橋は落ちてゆく落ちてゆく
それから彼は浄火のなかに姿を消した
いつ、わたしはツバメのようになれるのでしょう――おおツバメよツバメよ
くづれはてた塔にいるアキターニア公だ
これらの断片で僕は自分の廃墟をささえてきた
それなら、そういうことにしましょう。ヒーロニモーはまた気がちがった。
ダッター、ダーヤヅワアム、ダーミヤター。
シャーンティー シャーンティー シャーンティ
(「荒地」Ⅴ.雷神の言葉)


 サイファーがないと詩集を開かなくなっているほど余裕がないのが最近まずいのだが、waste landってそういうことだったのか、というか80年代Bボーイの聖典「東京ブロンクス」(1986年)の歌詞が冷戦末期に核戦争で街が滅亡したイメージなので、まさに冷戦時代の遺物に慄かされている事態が進行中の今聴くと感極まるものがある。あと毎度のことですがサイファー司令官の佐藤雄一氏の多大な労力に感謝と敬意を。その『現代詩手帳』5月号の東日本大震災特集にインタビュー「サイファーが目指すこと」も載っていました。


Last night show...  
俺はラッパー JAPPA RAPPA MOUSE
起きたら外は暗いまま 寝過ごしたと思ってドアを開けたら東京はなかった
東京ブロンクス でかいDANCE HALL これじゃどこまで行ってもDISCOTIC
崩れたビルから ひしゃげた鉄骨 壊れ果てたブティック
 
何日寝たのかわからない 壁にスプレー 誰かが残した"NO FUTURE IS MY FUTURE"
こんなディスコはまるで知らない 屋根も柱もブースもない
ミラーボールもレーザービームもレジもクロークもない
ラジオもない 電話もない あっても受話器は誰も取らない
ALL FREE ALL NIGHT 得意のステップ 膝まで埋まる 溶けたガラスとプラスティック
ディスプレイは最高 DEADTECH ボロボロのPUNK FASHION
いつも言ってた通りさ 踊って死ねたら きっともっと楽しいPASSION

(……)

誰か聴いてくれ 人に逢いたい どんなOUTな奴でもいい
生きてりゃいい 聴くだけでいい 動かなくたっていい
落ちこぼれるのには慣れてはいるけど死ぬときゃ一緒がいい
だけどやめたりしない 世界最強の ONLY ONE NIP HOP BOOGIE GOGO RAP!!

人に逢いたい 誰でもいい どんな奴でもいい
生きてりゃいい そばにいればいいから 誰かここに来てくれ
人と同じことはやらないけど死ぬときゃ一緒がいい
声が出なくなる時 それが最期の ONLY ONE MAN NIP HOP LAST NIGHT
東京ブロンクス
いとうせいこう&タイニーパンクス「東京ブロンクス」)


 これに続いた返歌としてはもちろん(『ECDの東京っていい街だなぁ』(1993年)があげられる。
 『荒地』(1922年)は多分大江健三郎の『水死』の元ネタの一つ、というか世紀の奇書、宇宙的意志に導かれて元原発技師が首都の核テロを企てるSFアクション……と狂気のビジョンが憑依する宗教的幻想詩篇の伝統……になおかつ「戦後草野球の黄金時代」が合体した『ピンチランナー調書』をこの前読んだばかりだったので、フロイトでよく言われる抑圧されたものの回帰じゃないけど真に不気味なことに、「風の谷のナウシカ」とか「AKIRA」とか冷戦時代の想像力が全く過去の(責任を持って安全に廃棄処理が完了した)ものになっていなかったということだよね。オウムも。


 簡単な伝記上だと、第一次大戦後のヨーロッパ社会の世俗化(空虚な都市、と「荒地」の一節にある)に絶望して英国国教会に入信してモダニズムから転回したというエリオットの後期の作品は、敬虔な宗教詩のはずなのにここでモチーフになって希求されている「眼に見えない光」の不吉というか異様な感じがぬぐえないのはなぜだろうか。


がらんとしたところに
おれたちは新しい煉瓦で建てよう
人手も機械も
新しい煉瓦の粘土も
新しい漆喰の石灰もある
煉瓦のくずれたところは
新しい石で建てよう
梁のくちたところは
新しい木材で建てよう
言葉が語られないところは
新しい言葉でたてよう
みんないっしょにやる仕事
みんなのための教会と
ひとりびとりのやる仕事
めいめいには自分のつとめ
(……)

とりこわすもの、うち建てるもの、建てなおすものはたくさんあります、
仕事をおくらせないように、時と人手をむだにしないようになさい。
粘土を坑からほりだし、石をきりだしましょう、
炉の火を消してはなりません。
(……)

地上の生活のリズムのなかで、私たちは光に疲れています。一日が終るとき、遊びが終るとき、私たちはうれしいのです。うっとりした喜びは、あまりにも大きな苦痛なのです。
私たちは疲れやすい子供です。夜ふかしをして、花火があがっても、眠りこんでしまう子供です。働くにも遊ぶにも一日は長すぎます。
気晴らしにも緊張にも疲れはてて、私たちは眠り、眠るのがうれしいのです。
血液や、昼や夜や季節のリズムに支配されて。

私たちはロウソクを消し、光を消して、またともさねばなりません。
炎を永遠にしずめて、また永遠にもやさねばなりません。
だから、私たちのささやかな光、影でまだらな光のために、私たちはあなたに感謝をささげます。
私たちの眼の光や指のはしで、ものを建てたり、見つけたり、形づくるように、私たちをしむけて下さったあなたに、私たちは感謝をささげます。
そして、あの眼に見えない光のために祭壇を作り上げたとき、私たちはその上に、私たちの肉眼に見えるささやかな光をかかげることができるのです。
暗黒が私たちに、光を思いださせてくれるのはあなたのおかげです。
おお、眼に見えない光よ、あなたの偉大な栄光のために、私たちはあなたに感謝をささげます。
T・S・エリオット「『岩』の合唱」)


 バロウズとエリオットはミズーリ州セントルイス生まれでハーバード大卒という育ちが同じなんだね。そしてハーバードではエリオットと文化人類学に関心があったというバロウズは「カットアップ」の原型としてダダの他にエリオットの「荒地」を挙げている、ってウィキペディアにすら書いてある。ミシェル・レリスとか戦前のフランスでは民俗学文化人類学が若者にとって一種のカウンターカルチャーだったそうだけど、バロウズもそのムーブメントの一員だったということか。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%83%E3%83%88%E3%82%A2%E3%83%83%E3%83%97

 「カットアップ」という代名詞だけ有名なわりにあまり中身は読まれている気がしない(実際通読するには慣れようがなくて辛い)『裸のランチ』(1959年)は、薬物中毒者の特殊な隠語が飛び交う地下世界のコミュニティの妄想幻覚混じりの思い出を実体験として描いた、ものをタイプライターとハサミと糊でコラージュして轟々文字がうごめくノイズ小説にしてもっとわけがわからなくしたブラックコメディー。何ページかに一回切り刻まれてフラッシュバックする記憶のモンタージュが詩的に冴える場面があり、大竹伸朗中原昌也といった作家がいかにバロウズの創作手法に直接間接的に影響を負っているかが確認できる。
 ジャンキーの時間感覚特有の、目が覚めているあいだはひたすら持続するワンパターンな快楽のためだけに意識がある時系列が溶解して昼も夜もない渾然とした「なう」の断片が延々とつぶやかれ言葉の塊となる。たぶんネット時代の今だとネトゲ廃人とかが見てる悪夢を体験記にするとこうなるのか?

『 空に向って、ごみの山の中を歩けば…… 散らばるガソリンの火……煙は糞のように黒く固く、風のない空中に浮かび……真昼の熱の白いフィルムを汚す……D.Lは私の横を歩く……私の歯のない歯ぐきと髪のない頭に対する投影……ゆるやかな冷たい火に消耗される腐りかけた燐光を放つ骨の上のよごれた肉…… 彼はガソリンの空きかんを持ち運び、ガソリンの臭気は彼をおおい包む…… 錆びた鉄くずの山までくると、原住民の一団に出会う……腐肉を食う魚に似た平べったい二次元的な顔……
「やつらにガソリンをぶっかけて、火をつけろ……」

   白い閃光……ずたずたに切られた昆虫の悲鳴……
 死人から逆もどりして目を覚ますと、口の中に金属の味がした。』(ウィリアム・バロウズ裸のランチ」)

『作家が書くことができるものは、ただ一つ、書く瞬間に自分の感覚の前にあるものだけだ…… 私は記録する器械だ…… 私は「ストーリー」や「プロット」や「連続性」などを押しつけようとは思わない…… 水中測音装置を使って、精神作用のある分野の直接記録をとる私の機能は限定されたものかもしれない…… 私は芸人ではないのだ……
 人びとはそれを「悪魔にとりつかれる」と言っているが…… ときとして、ある実在物が人間の肉体に飛びこむことがある――身体は黄褐色のゼリーのように震える――(……)作家連中は甘ずっぱい死のにおいのことをよく論じているが、ジャンキーならだれでも知っている――死には何もにおいはない……とはいうものの息をつまらせ血の流れを止める一種のにおいはある……死の無色無臭のにおい……肉体のピンク色の渦巻と黒い血のフィルターを通して死のにおいを吸いこみ、かぐことは誰にもできない……死のにおいはまぎれもなく一種のにおいで、完全な無臭だ……すべての有機的生命は嗅覚を持っているから、無臭はまっさきに鼻を襲う……嗅覚の停止は目には暗黒のように、耳には沈黙のように、平衡と位置の感覚には無重力のように感じられる……麻薬の禁断時には、つねにこのにおいをかぎ、みずからそれを発散して他の人びとにかがせる…… 麻薬切れのジャンキーはその死のにおいでアパートじゅうを人間の住めないものにしてしまう…… しかし、風通しをよくすれば、ふたたびその場所は人間の吸いこめる普通のにおいがするようになる…… また死のにおいは、アヘン中毒者がとつぜんシャクトリムシのようにはねまわり始めて、ものすごい山火事のように暴れるときにも、かぐことができる…… 治療法はつねに、よーい、どん、だ!』(「裸のランチ」)


 エリオットと鮎川信夫(「裸のランチ」や「ジャンキー」の翻訳者でもある「荒地派」の詩人)とバロウズの三角形については専門家に任せておこう……。


 最近良かったラッパー、マッチョイズムから見たオタクっぽくならない、つまりストリートで舐められない強い芯が通っていて繊細かつスマートに思索するラップ、が凝ったジャズサンプル使いのトラックに乗るHaiiro de Rossi『SAME SAME BUT DIFFERENT』と肉体的本格派のタフさとユーモアが際立っているTAKUMA THE GREATについてはまた別に書きます。
 また地元推しになってしまうのだが……。京浜急行線黄金町は黒沢明の「天国と地獄」の地獄の方のロケ地でおなじみ。

 上手く観測できそうもないけど、2000年代に降神イルリメやアンチコンのフォロワーが大量に生まれ陳腐化した結果、若手MCのある種の発声フォーマットになった、まるで文字量を競っている(だけ)かのような、情報技術に侵食されて主体性が脱臼されたふりをして逆に想像的=幼児退行的なセンチメンタルな感情が強化される、つまりデジタル時代の無限に拡散するデータとしての「私」性にアイロニーとして叙情性を託すゼロ年代セカイ系キンキン声スタイル、を乗り越えて新たに足元から現実の輪郭を描くラッパーが表れているのだと思う。いやでも00年代っぽい人の中だとDOTAMAの必死さは好きです。


 とある事件に遭遇したせいで、「悪そうなギャングスタラッパーと実際友達になれるのか問題」というのを否応なしに考えさせられたのだが、悪そうな人の生き方は無条件には、単に自堕落に道を外れて威張っているだけだったらリスペクトできないし面白くもないのであって、個人的な性向にせよ階層的な育ちにせよ様々な偶発的な条件で悪そうな人がそういう風に非合法にしか生きられなくなったとして、その抱えている人生の宿命を作品として一歩距離を置いて創意工夫して昇華しようとする所に美しさがある。要は友達がやってたとしても部屋の中で隠れて楽しむならいいけど(信用があればそれだけで絶交には至らないけど)自己管理できなくて他人を巻き込んだり迷惑をかけるのは最低だっていうことだ。
 そして観客の方も表現の本質とはズレた紋切り型の反社会的イメージをことさら安直に賛美するだけだったら、そこには実話ゴシップ誌的な、結果として弱者同士を食い者にさせる閉じた共犯的搾取構造が出来あがっているのではないか。 佐々木中フーコーの本に出てくる、下層階級の犯罪者予備軍を生かさず殺さず統治権力が利用するシステムです。
 それを当事者として批評する視点がストレートにじゃなくても(別に畏まって社会派みたいなことを言わなくても)色んな角度や距離感であるかどうかというのが重要なのではないかと思われます。
 しかしややこしいのが、愚直な開き直りと紙一重に「天然にネタにする」というコメディー的なやり方が成熟しているのが黒人音楽の豊かさかな、とも。
 結論としては「適度な距離感が大事」ということに至りました。そしてその上からでも下からでもないネタにできる位のぎりぎり対等な距離というのは、やはりピラミッド型に下から下からに搾取を生み出す依存し合って高を括った同類ではなく、異質な他人としての信頼関係から生まれるのではないでしょうか。
 いずれにせよ、もうそういう態度かでかいだけの輩はうんざりだと貧しい偏見が忍び寄るほどに、一時期ヒップホップが嫌いになりかけるという所まで陥ったのですが、立ち直ったかも。過去のアラザルでもベタベタとコミュニティにもたれかかっているだけの合唱隊みたいなラップは好きじゃないとは書いていたのですが、そこには言葉が意図的なコントロールを逸脱していく運動がない気がする、みたいな理由で、即ちそこで足りなかったのは距離感だったんですよ。まあ、駄目な人を嫌いになったからといって短絡的な錯覚だったのだ。
 しかし現在に到るまでずっと洋邦問わずラップ市場ではライフストーリーの共感型の受容(KREVAとか十代のファッションリーダー的な?)も過半数に大きいのではないかと思うので、これはやや特殊な受容かもしれない。


『率直に言って、わたしはやくざは嫌いである。しかし、個々人で見ると、どうしてあの人たちはあんなに魅力があるのだろう。得体がわからぬままにその魅力に取り付かれて、取材を重ねた。そのほとんどはシナリオに採り入れたが、実像そのままではない。モデルにした人物たちは、いずれも<社会の屑>と呼ばれ、ひとたび葬られたら二度と掘り起こされない人々である。出来たら、なんらかの形で、名を残してあげたいという気持があった。』(笠原和夫「破滅の美学」)


 それでその後、磯部涼氏がD.Oのレビューでラッパーと「法の外」について問題提起している文章を見つけて興味深かった。個人的にはさっきも触れたけどあるラッパーについての「悪い=かっこいい」という等式は、観客やリスナーやメディアが自ずと支持を決めるものだろうけど、そこで最も人を惹き付ける評価の軸が何かといえば、「悪い=という否定性のレッテルを張られた人生を(文学的にせよ経済的にせよ)何らかの形で肯定へと逆転しようとしている、明確な成功/失敗は別として、だって「勝ち」が単に同情票を呼んだセルアウトだったりするので=ゆえにかっこいい」というように悪さのイメージを書き換えていく、具体的にそのそれぞれ単独に事情が違った現実の条件を写し出す視点をリリックの中に少なからず、一枚フィルターとして差し挟んでいるかどうかで成立しているのだと思っている。そしてイメージとしての「悪い」をそのまま「=かっこいい」(悪くなければかっこ悪い)という単純な等号で持て囃すのは容易に凡庸なイメージとして利用されるだけで、それがまたイメージとして一般社会に誤解されて「悪い=排除」へと反転してしまうのではないか。あとさらにそのイメージに対するそれぞれの距離として「幻想に裏切られる(「悪い業界人に騙される話」が定番なように)」という内省でリアルを演出するのもこっち系のラップでは重要なモチーフだろう。
 その必然的に屈曲した異質な人生(思考・経験…)を抱え込むことになってからの、「悪い→かっこいい」に変換するフィルターである所の言葉の作用がうまく機能していないとやっぱり芸が無いっていうことじゃん。でも「何も考えていないように見えても佇まいだけでかっこいい」という反則的な人も多々いるので(サウス系とかビズマーキーみたいな芸風か。そういう人は素の状態が元々フィクションに近い、というそれはそれで苦難の道を歩んでいるのだろう)、成功への正解は一つではない、これまた繰り返しになるけど。ついでに『100点より0点の方がスリル満点』(アルファベッツ)という一行を思い出したので引用しておこう。
 「不良」という否定的な札を何らかの意味でポジティブなものへと裏返すためには言葉の上での操作(誰にも真似できないイルなスキル)が必要、だとは実はラッパーが繰り返し言い続けていることだった。とはいえ、もちろん常識的には90年代以降日本にヒップホップが根付くために芸能界に記号として流通する虚実皮膜のフェイクを含めた「悪そうなイメージ」が重要だったことは言うまでもないし、例えばここで論じられているD.Oとダウンタウン中川家のコラボレーションは「ハイプなイメージ」をさらに奪い返さなければできなかっただろうのでいずれにせよ頭の使い様なのだろう。

 一緒に逮捕された若麒麟とD.Oはこの前たまたま連れて行かれたアントニオ猪木のイベントのゲストで仲良く出てきて一部では大人気だったので受け皿はあるんじゃないですかね。
 ちなみに全然関係ないけど80年代に中森明夫命名して宮崎勤事件があって以降の「キモい」という被差別的な否定性を、ゼロ年代のオタクは市場を勝ち取ってひっくり返すことに成功した、ゆえに東浩紀は勝利した、とは佐々木(敦)さんの説。差別や貧困と戦う歴史を背景に持つが、9.11〜オバマ以降では有色人種としてのアイデンティティが以前とは変わってきたアメリカの黒人と平成不況が深刻化して以降の日本のラッパーがグローバルにフラット化して並列するようになった時代、ネット上の「SWAG」ってそういうことか?そしてその「キモい」が転倒されてAKBが全国区に受け入れられたこの世の春を今最も謳歌しているのはアイドルオタクかもしれませんね。「アフロ・ディズニー」のオタク=黒人説に新たな註釈が生まれた。余談の余談にきりがなくなってきのでここで終わり。

『しかし、思い出して欲しい。本来、ヒップホップとはアウトロー、つまり、法の外に弾き出されてしまった人たち(out-law)のためのコミュニティではなかったかと。この国は、近年、ますます、法に抵触したものを徹底して叩き、追放し、謝罪させては憂さをはらすような、村八分的性格を強めている。なかでも、ドラッグは踏み絵として使われている節がある。ちなみに、そこで言う"法"とは、法律に準ずる世間の"法"だが、法律と世間の"法"は真っ向からぶつかることだってあって良いはずなのだ。それにも関わらず、市民が警察化しているこの狂った時代は一体、何なのか。D.Oは前作収録曲"Rhyme Answer"で言っていた。「逆に聞きたい事があるんだが 世の中か? 俺か? 狂ってるのは」。そこで、"狂っている"とレッテルを貼付けれた彼は、"I'm Back"で再び問う。「皆俺に大丈夫か?って訊くが/皆は逆に大丈夫か?」』

http://www.dommune.com/ele-king/review/album/001646/

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