本当は本というのは他の本を読まないためにある(今作った名言)。

 本当は〜。ほんと、うっわ〜。永久に…。トワイライトに今夜もJR東海で逃亡する苫小牧に乗り換えで上野駅は使いますか?トイレはどこですか?ゲストに入っている?どちら様のお知り合いでございますか?うーん、保険証だとやっぱりダメですか?…え?写真が付いてないとダメ、そんなのわかってんだよ!だから保険証に3分写真を貼ればいいんじゃないかという発想は却下なんですね?はいそうですかドリンクチケットはなくさぬように。o-nestでいつも紛失するんだよね…。明日フルカワヒデオ200ミニッツだねー。行っけるかな〜。この日記書いた時期とははるか全然関係ない情報を挿入していますが「ダジャレ批評☆グランプリ」っていうのを思いついたのでそのうちどこかで開催する予定なので出場者募集をしなければならない。円城塔さんのtwitterが毎日約50%がダジャレなのでこれはどうにかしなければお題にダジャレを使って評すればいいっていう簡単なルールで優勝者に賞金をどうするか考えなければならない。でー、何の話をしようとしていたかっていうとパリって東京より地下通路の地下道で穴だらけなんだってねー。「パリ・コミューン」ってかっこよくね?と思って『フランス史10講』、柴田三千雄・著(岩波新書)を読んでいるのですがフランスについて私たちは何も知らないね。世紀末の象徴派詩人と革命の関係の歴史を知りたく思えどあまりに遠しだね。冒頭からいきなりなんの前触れもなしに某ハルヒにも何度も出てくるということは俺がハルヒレベルということだが、「涼宮ハルヒの憂鬱」シーズン2の20話以降がキョンハルヒをグーで殴りたくなった後の展開がまじでやばい。キャラクターが文化祭で映画を撮るっていうシチュエーションが京都アニメ撮影所は好き過ぎる。二次元の記号なのにカメラを持つっていうのはその手の批評では重大トピックですが(虚構世界の時間を写し撮ろう=永遠化しようとする!)その辺に置いといてヒアホン2でハルヒの台詞を引用したのは谷川流へのオマージュという後付けの言い訳は放っておいて前置きが長いのはそういう体質だからですがいきなり某ラカン先生やフロイト先生みたいな名言を主張していますが脱線しているうちに他人事ではない。主人公キョンのそういう自分だけ超然としようとして所詮結局十代の限界な背伸びした青臭い人物設定が成功の肝だね。レバーだね。手羽先食べづらい・ね☆ついに映画化だってね。まだヤマカンが演出をやってた回の「サムデイインザレイン」の文化祭直後の秋から冬に季節感が移行する学校のサウンドスケープを周到にデザインした音響演出でこのシリーズはただの萌えアニメではないと見直したのである。どころか単に処理速度が遅いので滞っているだけである。速読術のマニュアルって一から読んでいる暇があったら他の本をもう一冊読める気がしてならない。無意味というか非・意味というか非・アカデミックというかエンターテイメントな不合理さが足りない気がしてならない。だから今、何をすべきかというとこれ読んだ人に怒鳴り込まれないことを願ってもう寝るべきだ。

 翌日食べる物が家の中に餡かけかた焼きそばしかなかったので、しかし袋を開けたら麺は入ってるけどこれを餡かけにするには責任を持って具は自分で探して来いと書いてある。急遽スクランブルエッグとキャベツをフライパンで炒めたらエビもイカも入ってないけど中華っぽくなった。プチ発見。ざまあみやがれ。この所本気で毎日が昼御飯が食べられるかどうかの瀬戸際のぎりぎりの攻防戦なのである。外で食うときはフレッシュトマトカレーは店舗ごとに当たり外れが大きいので要注意である。これがまたそもそもさっきから何が言いたかったのかというと、家の中で本が行方不明になる現象について誰か研究しないだろうか。どう考えても今ここで頑張って探し出すよりまた新しく買った方が早いというのは距離空間的にシュールすぎる。8割は人がいない間に床に本が落ちていると片っ端から押入れにブチ込んでからどこにしまったか忘れないと気が済まない病気のおかんのせいだが、迷子の「コンクリート・アイランド」はどこにいったのか……。ムカついたので迷子は諦めて(高かったから)「女たちのやさしさ」をアマゾンで注文してやった(安かったから)。「千年王国ユーザーズガイド」でJ.G.バラードヘンリー・ミラーを「労働者階級のプルースト」と言っていたり、フィッツジェラルドとかヘミングウェイとかナサナエル・ウエストとかSF以外にも造詣が深いことが語られていて自分の中ではまだバラードの時代は終わっていない。アマゾンのジャングルからクリック一つで配達される方が早いなんて大変な世の中になったものである。なぜこんなことになったのかというと元はといえば他の関係ないのを探しているついでに読みかけの「コカイン・ナイト」が目の前に転がり出てきたからである。なぜか創元推理文庫の「結晶世界」が2冊あるし…。仕方がないので「結晶世界」、「なんとなく、クリスタル」、「結晶世界」という順番で文庫を並べて遊んでいます。結晶なんとなくクリスタル世界!ちょうど寄寓にももうすぐ出るSFマガジンのJGバラード追悼号は必読である。

S-Fマガジン 2009年 11月号 [雑誌]

S-Fマガジン 2009年 11月号 [雑誌]

 その「コカイン・ナイト」を読了したのですが熟練の技巧が重厚なボリュームを途切れることなく漲っていて観光ミステリーのふりをした「現代社会はもう、死んでいる」な緻密な透視力が圧巻で後期バラードの代表作といっていいのではないかと思いましたが、故・J・G・バラードと故・伊藤計劃黒沢清は一瞬交差するヴィジョンを持っている(いた)気がしてならない。黒沢清も飛行機が墜落したりするのが好きだよね。あと水浸しね。つくづく二人の偉大な作家の急逝と永眠が惜しまれる。ところで登場人物の異常に人当たりが良く異常な行動力の地域のリーダー的なナイスガイな扇動者、ボビー・クロフォードがまるで最近の喝を入れないと死ぬ衰弱した批評界のようだ。しかも春頃の突発性人文科学書パニック障害(原因は間違いなくオーバードーズの食中毒)を克服して再チャレンジした樫村愛子の「ネオリベラリズム精神分析」の、なぜ文化に「死」や精神分析でいう象徴的な儀礼が不可欠なのかという命題に見事にぴったりシンクロしている。

『「(……)誰もが彼を必要としている――少年のような魅力や熱意といったものは、このところは希薄なものになっている。私は、最近ずっと、現場で働いている彼を眺めてきた。ポーラ、彼は純粋にみんなを救いたいと思っているんだ。みんなに、自分自身を最大限に活用するようにさせる不思議な方法を、クロフォードはたまたま発見した。彼は本物の聖者の一員だと言っていい」
「彼は異常者よ」
「それはフェアな言いかたじゃない。我を忘れてしまうところはあるが、しかし、あの人物の内に悪意のかけらもない」
「純然たる異常者だわ」ポーラは鏡に背を向けて、強い批判のまなざしを私に向けた。
「あなたにはそれが見えていない」
「ああ、私には見えないよ。そう、確かに、彼にはどこか逸脱した方向に向かう性向があるのかもしれない。彼は何ともひどい子供時代を送った。私はそこで彼に共感してしまう。異常者としての聖者か、聖者としての異常者か、――どちらにしても、やっているのは善なることだ」
「で、その聖者がいなくなってしまったら?いったいどうなるの?別の浜辺の贖い主を見つけ出すつもり?」
「その必要はない。クロフォードは唯一無二の人物だ。彼がいなくなってしまっても、すべてはそのまま進行しつづけるだろう」
「そうかしら、どうやって?」
「一定の方式が働く。彼は、余暇社会――ということはたぶんすべての社会ということだろうが、そんな社会に関する最初にして最後の真理を発見した。犯罪と創造力は不可分の存在なんだ。過去の歴史を見ても、この両者は常に相伴って機能してきた。犯罪意識が強くなればなるほど、市民の意識も鋭利になり、文化はより豊かなものになる。犯罪以外に、コミュニティを一つに結び付けられるものはない。不思議なパラドックスだ」』(「コカイン・ナイト」480-481p)

『一方で、具体的な社会構造や矛盾が指摘されずに政治がテクノクラートによって密室化されるので、現状に対する不満は、暴力的な現状破壊や現状改革への希求となり、政治は強いものへの、力への同化となってしまう。
 バックラッシュなどの政治的反動に見られるように、文化的に乏しい言説が力をもつのは、運命論的な市場科学主義への幻想が揺らぎ始め、それを代補する幻想が社会内部に求められているからでもある。
 この意味で、新しい資本主義は、すでに別の新しい資本主義の精神―幻想を必要とするような荒廃―危機を招き寄せてしまっているともいえる。
 そうでありながら、現代社会においてすでに言説の力が弱体化しているため、求められ要請されるのは、乏しい妄想的言説かそれを補強する、純粋な力そのものとなる。』(樫村晴愛子「ネオリベラリズム精神分析 なぜ伝統や文化が求められるのか」309p)