門前のアドルノのアクチュアリティー、習わぬ弁証法を、、、






 お前は一体何をやってんのかというと何も変わらず字の上をダラダラ彷徨っている。ゴロゴロしている。ウロウロしている。相変わらず今の時点では2008年に批評は文芸の一バリエーションだっていう「発見」をしてから一歩も先に進んでないのですが、映画批評からただの批評を書く段になったら「文芸」に囚われているっていうか、よってそれっぽく言うと根本的に語彙と方法論の改変を強いられてしまったわけだが、しかしそれでも未だにこれまで読んでしまった・聴いてしまった・見てしまったものたちの死霊の怨霊の呪縛は待ってくれず、大した取り柄もない者を気がついたらこんな所に追い込んでいるわけだが、しかしどこに行っても誰かが作った既定のシステムで偏差値を上げることに汲々としている苦しそうな人が多すぎる…… かといって自分だけが気楽にそこから自由だというつもりは決してないのだが、近ごろ都に流行るもの!夜討ち・強盗・ニセ綸旨!(後藤明生首塚の上のアドバルーン」に引用されていた二条河原落書より)にわか大名・迷い者!下克上する成り出者!ゼロアカ道場養成ギブス!批評批評って世の中がうるさいけどでも一応世間に説明すると別に「批評家・評論家」ってわざわざ自分から目指すものでも名乗るものでもないような、総理大臣とか番長とか組長とかピッチャーとか自分で名乗ってどうにかなるものではない権威のような気がする。そのポジションを誰が決めているのかというとわかりませんが、きっと天下の回り物でお鉢が回って来るんだよ。なのでアラザルは批評行為の一貫でやってるけど批評家志望を公言しているわけじゃない…。小林秀雄蓮實重彦東浩紀になりたいわけじゃない。って何回説明しても絶対わかってもらえないので言うだけ無駄というか野暮なのでいいんだけど自分のやってることはもちろん佐々木さんの影響で補正したり増幅したりした所はあるんだけど(例えば批評の私性=「好き」「お気に入り」の自意識の牢獄の危うさとか)、しかしそれが特定の名前を持った誰か、というよりも何かを見たり聴いたりする名前以前の脳内のシナプスの過剰エネルギー反応なシグナルにおのずから導かれたところはおそらくあって、こういう言い方はたぶんつい先日まで読んでいた大竹伸朗の「見えない音、聴こえない音」に引っ張られているのだが、世界に接触する脳のインターフェイスでひたすら何かが起きているんじゃないですかねー(放り投げた)。

『唐突に「理不尽」という単語が頭に浮かんだ。
 結局「何ですか?」「こうですよ」といったことではないのだ。「道理」のない動機を言葉で捕えようとすると、そこから途端に頭の中の言葉が散りはじめる。言ってみれば「頭上に漂い続ける道理のない何か」が自分にとって制作衝動に大きく関係しているらしい。そんなことだ。
 日常の中で感じる到底太刀打ちのできない「理不尽な力」、それに流されないためには「理不尽な何か」を持って作品制作をしていく以外に方法はない。そこに「道理」は見当たらない。人の感情とも意図ともまた誰かの意志とも異なる何か、いつの時代にも誰の頭上にもあり続ける名付けえぬ曖昧な透明雲、自分が感知し続けるその雲に押しつぶされないよう、そいつに吹き飛ばされぬようバランスを保つ唯一の方法、それが自分にとってモノを創り続けることなのではないか?』(大竹伸朗「見えない音、聴こえない絵」)

見えない音、聴こえない絵

見えない音、聴こえない絵

 だからつまりアドルノの解説本を読んでいて思い浮かんだのが大竹伸朗のことだったわけなのだ。エリック・ホッファーから(大衆=ファシズム批判ってことで)テオドール・アドルノに飛んでみた。ほんのさわり程度に触れただけですが20世紀の「(近代的啓蒙的)理性による大量虐殺」の歴史に翻弄された苦渋に満ちた西洋思想・ドイツ哲学の極限というか、これぞ「批評」だと思った。良くも悪くも重厚な20世紀の遺物という感じがしますが「全体は真ならざるものである」としてカントとヘーゲルベンヤミンの圧倒的な影響(アレゴリー的思考)でユートピア的な(ユダヤ神学的な)唯物論にしようとした終生音楽を愛したアドルノの思索を今の日本で実践的に受け止めているのは平井玄だろうか。
 入門的な本では日本人にも馴染み深い童謡「ドナドナ」(強制収容所に連行されていくユダヤ人の歌だったとは!)の響きにアドルノの語った「非同一性」を聴き取ることからはじめる細見和之の解説がわかりやすかった。しかしこれ全部読み終わるのは1年以上後ではないか…。

 アドルノを通すといかにハイデガーがひどい人間(だが20世紀の哲学界を塗り替えた、世俗を超越した強力な人工的思考体系を構築した)かがわかる。その後世俗の生活のマテリアルの細部に寄り添うフランクフルト学派は第3世代でメディア論に!音楽と失われた幼年時代への甘美なノスタルジーという点ではアドルノ江藤淳とかどうなんだと思いましたが(エッセーの思想)、「非同一性」のマテリアリズム、客体の声を繊細に聴く微視学、そしてペシミスティックなユートピアンっていうことだとアドルノ中原昌也を読むとかどうですか?って誰に言っているのかわかりませんが、ならびに遺作「美の理論」はモダニズムの完成者としてサミュエル・ベケットに捧げられている。アドルノの重要概念、未知なるものとの「ミメーシス」って今度使いたくなった。

『浅田 (……)やはりアドルノの本質はジェイがマンダリン的と言ったほどの文化ペシミズムのほうに近いので、その意味ではヘルメティックに閉じている、閉じているからこそ、しかし、ある種のラディカルな徹底性をもつ、というふうに評価したほうがいいのではないか。
(……)世界史的にも芸術史的にもある決定的な瞬間に立ち会って、そのあとずっと動くことなくその地点を掘り下げていった、そのことがアドルノの狭さであると同時に深さであるということなんでしょう。』(「アドルノのアクチュアリティー」批評空間第?期12号)

『徳永 (……)その意味では、アドルノの魅力は、多彩な否定的批評(批判)にもあるんですが、それ以上に、ある経験への眼差しというか忠実さにあると思うんです。一方では全体性の崩壊体験というのがある。そして他方では、音楽をはじめとする芸術体験というのがあるわけです。
 その中でも、もっとも重要な体験は、やはりアウシュビッツということですね。
(……)ただアドルノには、絶対者あるいは絶対的な真理に関して、いかにして認識可能かというよりは、いかに表現可能かという形で、ユダヤ神学に由来する「図像化禁止」の故知がはたらいているから、彼の表現は常に、「〜は真理ではない」という否定的な形をとらざるをえない。それが個々の具体的な対象に即して行われる場合には、ミクロローギッシュな批評活動として現れる。だからアドルノの場合、哲学者であるか批評家であるかは、ニーチェと同じように二者択一という形をとらないので両者は一体となっている。そこに彼の魅力があると思いますね。』(同)

『浅田 (……)他方、アドルノニーチェの可能性をまったく別のところに見ているのではないか。アドルノが継承しようとするのは、表面こそがもっとも深いのだと喝破し、まさにミクロロジー的なディティールから圧倒的に鋭い批評を行ってみせたニーチェであり、とりわけアクロバティックなまでに運動してやまぬその文体です。いわば、アドルノニーチェを哲学者というより批評家として見ているのではないか。さらに言えば、本来性のジャルゴンではなく、そのような批評=批判こそが、真の意味での哲学だというのが、アドルノの考えだったかもしれませんけれども。(……)ぼくがさっき批評家だと言ったのはそういうことなんで、あらかじめ作った目次立てを埋めていって体系を構築するのではなく、そのつどそのつどのアクチュアリティーに基づいて書かれた断片的なエッセーのコンステレーションが万華鏡のような像を結べばいいのだという書き方をしている』(同)

 あとアドルノの微視学的批評スタンスについては仲正昌樹の「思想の死相」がいいことを言っていた。

『ようするに、大きな道徳をふりかざしていると、「角を矯めて牛を殺す」ことになってしまう、とアドルノは警鐘を鳴らしていたのだといえます。このことわざのドイツ語ヴァージョンに、「お湯と共に赤子を流す」というのがありますが、アドルノ警句集「ミニマ・モラリア」(1952)には、このタイトルの文章が含まれています。この本は、革命運動への警鐘であるともいえます。歴史の進歩を信じ、世界はかならずこうなっていくから、自分“ら”もこう動かなければならない、というかたちで、上から下に押しつけるような道徳を実行すると、この世界を「生き生き」と破壊するだけの行為におわってしまうことが多い。アドルノは、それを言いつづけました。「右」の生き生きも「左」の生き生きも、「大きな道徳」を掲げたまま権力を握ってしまえば、結局同じことなんですね。』(仲正昌樹「思想の死相 知の巨人は死をどう見つめていたのか」31p)

 パウル・ツェランの「山中の対話」はアドルノとのすれ違いを元に書かれたそうだ。あとしかもどうやら批評空間の編集後記は柄谷行人の愚痴コーナーだったみたい(笑)愚痴るのが批評だっていうのは確実に今の東さんに受け継がれてますね。そのうち後河とアドルノ呑みをするからいいんだ…。「3時10分」見たよー!