くだらなシリーズ

(もう1か月以上前の日記なのでその点はご了承ください)

 宇宙空間からの緊急呼び出し指令で近所で駅からの夜道を歩いていたら後ろから金属バット状の何かで頭部を何度も殴打・失神した所をちょっと火星まで連行されて来年竣工予定のコロニー建設計画に必要な資源を借金のカタに一人3,00,000平方キロメートルのノルマでしかも家から持参のスコップで現地調査・探索していたので3年前に借金したのは宇宙人。利子計算はXファイルのレベルE。どうりでフィルム代とレンタカー代が出ねえと悩んでいた学生時代にお決まりのように髪がパステルカラーの名前も知らないエキゾチックなグラビアアイドルがロードサイドの看板から今目が合った!動いた!と思ったら大気圏だった。消費者金融じゃなくて惑星間移住者金融だった。交通費と燃料費は自腹だった。というわけでその間不良債権処理で差し押さえられていた(本気で憔悴した…)「ニッポンの思想」を苦労して読み終わったのだが、これは精密なパズルのように「思想(家たちの発した言動)=テキスト」のニッポンにおける作動過程を記述した、「過去と現在の一貫した連続性」をつなぐ橋を築いているかのような建設的な本だ。一人の批評家によるありうべき未来へのブリッジ?しかしこれまでの佐々木さんの仕事を振り替えるとこんな「建設的」で状況介入的(に見えるような)アクションを起こし、「次の世代への希望」を語るのは明確な変化のように思える。基本的にはエッジで隠遁している佐々木敦=忍者説だったような気がしますが、佐々木さんの本はいつも後書きが一番(というとあれだけど)面白いのではないか説。本文はロジカルでシステマチックなのに後書きにはふと気が緩んだようなエモーショナルな私情が出てるかのようなお楽しみのオマケ感がある。
 中身でいうと生きている外国人で興味を持てそうな人がどんどん死んでいっているっていうのが家畜化=ドメスティック化の原因じゃないかと思った。80年代にはフーコーデリダラカンもサイードも生きてたんですよね……。
 
 しかし、本書は現代バージョンの「日本の思想」といっても知性と教養を持ち合わせたエレガントな文化系読者を想定して書かれていることは否めない。ここには例えば大沢真幸がリバタニアニズムは思想と見なしていない、と言ったような捨象が前提として見受けられ、例えば今の普通のニッポン人にとって親しみやすい「思想=知識人」とは、厳密に市場価値と影響力だけでいうと茂木健一郎とか斎藤孝勝間和代梅田望夫らの方が、90年代にはホリエモンひろゆきも影響力では草の根レベルで大きかったはずだ。あとニッポンで知識人の代わりをやっているといえばたけしとか爆笑問題とかタレント系も無視できない。小林よしのりは取り上げられていますが(やる意味がよくわからないけどやってみたらああなった的なアラザル誌のディベート批評――お題を順番で擁護/否定するという言論バトル企画――の補足というか加筆。自分の佐々木敦批判の引出しの少なさと貧しさに絶望したので精進しようと思った)。
 したがってこれは著者自身も述べるように「(複数の)ニッポンの思想史」の「すべての歴史」のうちの「ただ一つの歴史」であり、だから当然別の歴史があり得る。思想だけが!命がけの美!もしある男が、夢の中で楽園を横切り、目覚めたとき、手の中のその花に気づいたとしたら……私が、その男だった。というおそらく同時代の読者の中でも一際過剰な「愛(憎)」によって書かれている。一見本筋からは関係ないように見える柄谷―東の「文学的問い」の読みが無駄にキレキレなのはだからそのニッポン思想史の磁場の一貫した通奏低音のメカニズムの解明のためにも必要だったのではないだろうか。

ニッポンの思想 (講談社現代新書)

ニッポンの思想 (講談社現代新書)

 
 なのでテン年代に対しておれが対抗できる唯一の提案は今度から佐々木さんを渋谷のドンと呼ぶことだ。渋谷のドンことテン年代のゴッドファーザーである。テン年代のゴッドファーザーこと渋谷のドンである。これでプロフィールの略歴でいいんじゃないかとCINRAとかでどんどん載っけていけばいいのではないでしょうか、なぜかまだ編纂されてないWikipediaの第一行目はこれでいいと思う。普及するまで言い続ける。今度からウェザーマンを引退してエクスポナイトとかのイベントでもまず挨拶はどうっもー!渋谷のドンことテン年代のゴッドファーザーでおなじみの佐々木でーす!!ドン・アツシーでっす!!ってこれで毎回お決まりの挨拶ができた!やった!渋谷のドン化するポストモダン〜渋谷のドンことテン年代のゴッドファーザーの誕生〜!!……佐々木さんが前から「J文学」「デス渋谷系」とか作っては壊すのが趣味みたいなので真似してみた。まだやってこない内に使い切ってしまおうという陰謀ではないです。

 依然何も言われないのをいいことに調子に乗っている話ははてなダイアリーのその辺に打ち捨てておけばいいとして気を取り直して『吉本隆明対談選』の吉本隆明×ミシェル・フーコーの対談読む。感銘を受けた発言↓

『では、具体的な問題から出発して明らかにすべきものは何かといえば、それは、新しい政治的イマジネーションというべきものなのです。私の関心は、この新たなる政治的イマジネーションを生じさせることにあります。われわれの世代を特徴づけるもの―たぶんわれわれ以前の世代、そして、もっと若い世代もそうだと思いますが―、それは政治的イマジネーションを欠落させているという点でしょう。それはどういうことかというと、たとえば十八世紀の人間たち、あるいは十九世紀の人間たちもそうですが、少なくとも彼らには人間社会の未来を夢想して想像する能力がそなわっていた。人びとがその共同体の成員として生きるとはどういうことか、またさまざまな社会的な関係、人間関係とは何であるかをめぐるイマジネーションが豊かに存在していた。事実、ルソーからロック、あるいは例の空想的社会主義者と言われている人たちにいたるまで人類は、というより西欧社会は、それぞれ非常に豊かな社会的=政治的な想像力の産物に恵まれていたといえます。』(「世界認識の方法」、『吉本隆明対談選』138p)

吉本隆明対談選 (講談社文芸文庫)

吉本隆明対談選 (講談社文芸文庫)